ひーちゃんのつぶやき
筆者について
私の生い立ち
泣き虫愛ちゃんから世界の愛ちゃんへ
母が卓球選手だったため、兄も卓球をし母はそれに付きっきりでお母さんっ子の福原愛は母といっしょにいたい一心で4歳から卓球を始めた、まさにその練習は本格的なものであり、1日4~5時間の練習をしラリーは500~1000回続けなければならなく、ミスをすると1からやり直しという卓球のみならずスポーツに欠かせない集中力を養うもので、この練習ではなかなかうまくいかずよく泣いていました。
5歳の時この練習風景や試合がテレビで放映され、この時から練習や試合で泣いているシーンがテレビで映し出されました。それでも懸命に卓球に打ち込み、明るく天真爛漫な笑顔で国民的アイドルになり、この年初めて「全日本選手権バンビの部(8歳以下)」で史上最年少優勝をすると、その後も数々の大会で史上最年少記録を作っていきました。
その「泣き虫愛ちゃん」が今や「世界の愛ちゃん」になり、世界の強豪と対戦するようになりました。
アテネ・北京・ロンドン3大会連続で全日本女子卓球のシングルで銅メダルを取った福原愛は今回のリオオリンピックでは、惜しくも4回戦敗退となり、メダルは逃したが団体でメダルを取りに行った、団体戦でも福原愛だけが負けてしまい後は石川・伊藤そしてダブルスにかけて3人の力で勝ち、見事「銅メダル」を取った。
伊藤の試合を祈るように見る福原愛、勝った瞬間石川と抱き合い涙を流した。
もうあの「泣き虫愛ちゃん」ではなく「世界の愛ちゃん」になっていた、練習や努力は決して嘘はつかない自分を信じ仲間を信じた結果だと感じた。
福原愛選手は立派な女性になったが、私たち世代は子どもの頃の「愛ちゃん」として呼んでいる、よほど昔の「泣き虫愛ちゃん」の印象が強いのかも
女子バレー決勝トーナメントへ
木村選手中心に戦ってきた3年間、そしてリオオリンピック決勝トーナメント進出したことは、最後まで諦めない試合をしチームメイトを信じ、眞鍋監督・コーチを信じやってきた事がトーナメント進出に繋がったのだ。
順々決勝でアメリカに敗れメダルには届かなかったものの、懸命に最後まで諦めない試合をしてくれた、試合が終わった時選手全員で円陣を組み声を掛け合っていた、これが木村キャプテンのチーム負けても笑顔でいようという選手たち、それを見て「いいチームだ」と感じた。
東京オリンピックでは、今回のオリンピック経験者と新鋭が全員バレーで1964年の金メダルを取ってくれるだろう、それを信じて私もがんばろう。
全日本女子バレー選手・眞鍋監督・コーチのみなさん、勇気と感動をありがとう。
屋台今昔
そもそもの屋台の始まりは、1716〜1736年で、1781〜1789年以後、さかんになったと言われています。
江戸時代には、「振り売り」という肩などに担いで移動する形式の屋台と、「立ち売り」という仮説店舗を組み立てて移動しない形式の屋台がありました。この屋台で提供されたものは、握り寿司や蕎麦切り、天ぷらなど、すぐに提供できるものでした。
今の屋台は戦後に普及した「闇市」の屋台で、戦争引揚者や戦争未亡人・戦災で店舗を失った人たちが生活のために行っていたそうです。しかし今は衛生面や場所の問題もあって厚労省や自治体で規制されたため、お祭りや花火大会などの特別な時を除いては見られなくなりました。私が小学生の時はよくチャルメラの音を鳴らしてきて少し道の広いところ停まり近所の人がよく食べに出ていましたよ、私は姉がどんぶりを持っていって「弟の分入れて」と頼んでくれ食べさせてくれていた事を覚えています、最近は電話で注文し持ってきてくれるというシステムになっていて寂しい思いがしますよ。
今の日本で「屋台」が多いのはどこだか知っていますか?それは福岡なのです、いろいろと規制がある中福岡市は1996年「屋台問題研究会」を発足し、屋台に関するありとあらゆる問題の研究に当たるようになります。そして、2000年5月に「福岡市屋台指導要綱」を告示することで、屋台を合法的な存在と認める代わりに、屋台に関するさまざまな規制を明確化しました。現在の福岡市長は「屋台との共生のあり方研究会」を発足し、現在でも屋台についての議論が行われていますが、こうして福岡市は、経営者たちが国や市と何度も交渉をして屋台を営業する権利を獲得してきたことで、今でも屋台文化がにぎわいを見せているのです。
近代化により屋台で作る蕎麦や焼き鳥などは、早く客に出さないといけないので炭火ではなくガスや石油を使っている、そのため事故も多くなっている、2013年8月福知山花火大会で屋台の店主が、携行缶で発電機にガソリンを給油しようとしたところ、気化したガソリンに引火し爆発したとみられている。
そして食中毒にも気をつけなければならない、夏は炎天下の中で手を洗わずまた冷蔵庫も水道もないところで調理しているのだ、これはとても危険な事である。
昔とは違い気温は上昇し、ガソリンやガスも使い事故が多発している。楽しい祭りや花火大会などに欠かせない屋台、おいしいものを安全に提供してほしいですね。
聖陵初出場
決勝はどちらが勝っても甲子園初出場の聖陵と新田、仕事で見れなかったが、打のチーム新田とアドゥ投手率いる聖陵どちらが勝ってもおかしくない決勝、試合は序盤に3点と2点を取り息詰まる試合となった。
同点にするチャンスがあった新田だが、プロのスカウトが注目する聖陵アドゥ投手から点が取れない、結局3-2で聖陵が夏の甲子園出場を決めた、聖陵はノーシードから勝ち上がりアドゥ投手を中心とした守りのチームで打の新田と守の聖陵という試合だった、予想では僅差または点の取り合いになるのではと思ったのだがふたをあけてみると1点差の試合だった。
アドゥ投手に新田打線は、1点ビハインドで終盤に再三のチャンスはあったのだが身長190センチから投げるアドゥ投手のボールを捕らえられなかった。今大会好調の新田の泉選手も快音は聞けずに終わった。
人生においても好不調はあり調子の良い時は、物事がスムーズに流れいつもの力が出るが、悪い時は力が出ない時もある、新田は一番大切な試合に力が出せなかったのだろう、または甲子園を賭けた大一番に飲み込まれたのか?人間の精神力は体調や雰囲気で上がったり下がったりする、「あの人は精神力が強いな」と言われているがいつも強いわけではない、この暑さの中で両校とも緊張し集中しながら試合をやったと思うが、精神力で聖陵が勝ったのではないか?
この決勝、打の新田・守の聖陵との試合だったが中盤から終盤にかけて0が並んだ、本当に投手戦だった。仕事で見れなかったがダイジェストで見たが両校とも引けの取らない良い試合だった。
参加60校が甲子園を目指し繰り広げられた、愛媛大会の決勝1点差の試合頂点に立った松山聖陵甲子園は1回戦北海高校と当たる、甲子園の大舞台で思いぞんぶん試合を楽しんでほしい。
がんばれ松山聖陵
小田さん最高
初めは懐かしいオフコース時代の曲を歌ってくれ、「あぁあの頃僕は何をしていたのかな」と思い出しながら聴いていました。小田さんは客席にも行きファンといっしょに歌う、ファンといっしょにコンサートを盛り上げるやり方で今回もやってくれましたよ、第11部が終了し、これも小田さんコンサート名物になった「ご当地紀行」がスクリーンに流された。「ご当地紀行」はそこに行った証で市民と触れ合ったり名所に行っていろんな事をしているのをビデオで流し観客を退屈させないように演出をしている、実におもしろいやり方だ、こんなところにも観客を大切にする小田さんの心遣いが表れている、第2部はオフコース時代の曲とソロになった曲をおり交えながら歌ってくれた、小田和正さんのコンサートに行くと感動していつも泣いてしまう、「もう泣かしてくれるなよ」と言いたいくらいだ。特にオフコース最後のアルバムの中の曲「僕等がいたね」は、オフコース解散が決まった時に作った曲でメンバー全員の思いが凝縮されている。また「言葉にできない」はオフコース武道館コンサートで小田さんが感激し泣きながら歌った、ソロになってからの曲「the flag」は学生運動に参加した時の事を歌にしている、この曲は「日本を変えたい」という思いが綴られている。思いは私といっしょなんだと私は考える、「ラブストーリーは突然に」や「たしかなこと」・「キラキラ」などのヒット曲も歌ってくれた。懐かしい曲・新作曲をたくさん聞かせてくれアンコールも4回してくれ本当に楽しかった夏の日でした。
このコンサートツアー、この日が折り返しの日で花火が打ち上げられましたよ、こんな記念のコンサートに行けるなんて夢にも思いませんでした、これも準備してくれたヘルパーさん・連れて行ってくれたヘルパーさん・そして「小田和正さん」がいてくれたからです。
「小田さん最高、ありがとう」
長平良 洋史